夕べ、山の音を聞いた

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「真青」(2016/抜井諒一)

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真青なる闇に触れたる蛍の火(抜井諒一)


真の青と書いて、「まさお」と読むらしい。句集である。僕は、ほとんどの人と同じように俳句を読まない。でも、この句集は特別だ。それはこの作者が知り合いだから、ということから始まる。

 

著者である抜井さんと会ったのは、もう10年以上前のこと。共通の知人である堀澤宏之さん(当時は伊勢崎で「ほのじ」という飲食店をやっていて、今は高崎で「シンキチ醸造場」というクラフトビールと和食の店をやっている)を介して会った。その頃抜井さんはまだ俳句を作っておらず、堀澤さんと立ち上げたサイト「めっかった群馬」で文章を書いていた。

 

2人を知りそのサイトを見てみれば、地元の、さらに物好きな人しか行かないような店の情報や、群馬県内でも数が少なくなった銭湯の詳細なコラムが書かれていて(抜井さんは、句集の前に「群馬伝統銭湯大全」なる本も出していた)、僕はすっかり抜井さんのことを年上だと思っていた。顔を見れば実に欲がなさそうな仏顔。GパンTシャツよりは浴衣に下駄が似合う出で立ち。僕より年下で実はけっこう若いと知った時は(今はお互いいい中年になってしまったけど)驚いたものだ。「へぇ、その年で銭湯とか落語とかはしご酒とか好きなんだねー」と。

 

おでん酒卓の人みな初対面(抜井諒一)

 

住む場所も近くはないので、会うのは年に1度、元旦に行う「お気楽俳句ing」という集まりだけだった。これは、抜井さん堀澤さん、他に僕のようなもの好きが集まって、初詣ついでに酒を飲んで俳句を読むという特殊な会だ。僕も参加して5・6年経つし、「俳句ing」自体はもっと前から行っていたようである。今思えば、この会を取り仕切る時点ですでに俳人・抜井諒一は誕生していたことになる。

 

抜井さんは、僕のような季語すら知らない素人にも嫌な顔せず、何を押し付けることもなく寄り添ってくれて、僕の安直な句にも何か良いところを見出そうとしてくれる。僕の趣味が俳句になることはなかったが、「俳句ing」は僕にとっても楽しみな例年行事になった。なにより、上野の大衆酒場などで卓を囲んでホッピー焼き鳥で一杯やった後に、ちょっとごめんなさいよとジョッキや皿を脇に押しのけて、抜井さんが持参した短冊にウンウン唸りながら俳句をしたためる。年号を2つ位遡ったようなその行為が、面白くて仕方ない。

 

寒月の光しづけさへと変はる(抜井諒一)

 

2年とすこし前、抜井さんが「北斗賞」という俳句の賞を受賞したと聞いた。俳句を知らないものにとっては聞きなれない賞ではあるが、全国を対象とした若手俳人の公募賞で、その大賞を抜井さんが獲ってしまった。すごいことである。その副賞として句集の発行があり、そうして世に出されたのが初句集「真青」となる。Amazonでも買える(そういう基本的なことが、知人としてとても嬉しい)。出版からいくらか時間は経ってしまったが、足元が冷える机に座って、今読み終えた。いい気分だった。

 

僕は俳句のことを知らないが、抜井さんが書く俳句には難しい語句や、理解が難解な比喩や言い回しは少ない。極力ないと言ってもいいくらいだ。それは、句集のあとがきにある「自然から得た直感を、それがいかに微弱なるものであろうと、逃さず一句にすることを心がけてきた」という抜井さんの言葉が言い表している。心配するくらい、飾り気がなく素直なのだ。

 

だからと言って、単純であったり安易な句ではない。自分が体験したことのみを俳句として書き残す、ということの純度を上げるとでも言うか、俳人に限らず誰しもが春夏秋冬に一度ずつ位は体験するであろう、暮らしの中のほんの一瞬、「何か豊かなものに会った」という瞬間を、彼は俳句として捕らえている。その句を読めば、そんな「豊かな一瞬」が、共感をもって、真青な無意識の中に蛍の火のようにふわりと煌めく。

 

この句集が特別なのは、作者が僕の知り合いだから、ということに始まった。だがそれを抜きにしても、俳句を読まない僕のような者に対しても価値がある句集だからに違いない。以上、ほめすぎた文章ではあるが、さほど間違ってはいないと思う。

 

真青Amazon
めっかった群馬(縁あって、僕もたまにコラムのようなものを書きます)